- 東日本大震災津波体験談
ご自身の体験談2
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津波に遭われた当時の状況を教えていただきました。ほぼ原文のまま掲載しています。
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仙台空港隣の新工事現場に300人の社員がいたので、会社に戻り、津波の避難を指示した。大きな地震だったので、絶対津波が来ると思った。現場の建物が、今年の3月に出来たばかりで、海に垂直に建っていたため、一階が津波の抜け道になり、2階は被害なしで済んだ。3月に出来たばかりの新工事現場のパートさんが数名亡くなりました。(宮城県岩沼市 50代男性/亡くなった方:宮城県名取市周辺 主に40代女性)
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家族が心配で車で家に向かおうとしていました。渋滞で車が動かなくなってしまい、近くの川が増水し道路に水が流れ込み、車が水没してしまいました。近くに警察署があって、警察の方が、警察署の中に避難して下さいって叫んでいるのに気づいたから避難して助かりました。(福島県いわき市 20代女性)
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下水から逆流して溢れた水で道路が冠水した。仙台港の工場や高速道路が防波堤のような役割をしたと思う。それがなければ、自分の家も津波は来ていたと思う。(宮城県多賀城市 20代男性)
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津波が見えてから、裏山に登って下を見た時には、一階部分は、すっぽり水が上がって居たので無我夢中で登りました。娘が妊婦で子供三人でしたので、時間がかかり、ダメだと思いました。(宮城県東松島市 40代女性)
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仕事で自宅を離れていた。恐怖で身動きができなかったが、人に促されて避難した。翌日家に行ったら全部津波にやられて、なにも無くなっていた。(茨城県北茨城市関南町 50代女性)
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生後22日の娘に授乳して、自分も一緒に寝ていた。地震直後、ライフラインはすべて止まって、携帯も繋がりにくくなっていたのに、夫(航空自衛隊に勤めている)から電話があり、「基地に水が入ってきているので早く逃げろ」と。それがなかったら、子供と車に避難していたから、車ごと津波に流されていたかもしれません。(宮城県東松島市矢本 30代女性)
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避難開始が早かったから助かった。車を使って避難したことがベストだったかわからない。高台や郊外住宅地への幹線道はすでに渋滞しており、にっちもさっちもいかない状態で波にのまれ、車から出られず…という方々も沢山いた。まさに私が数十分前に通り過ぎたその場所で。(宮城県気仙沼市幸町 40代女性)
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港が拡張されたが、海からの距離が以前よりもかなり近くなっていることを知らなかった。神栖市のハザードMapを見ても平地ばかりで高い建物など無く、逃げ場はなかった。その上、自宅の避難指定場所はさらに港に近い小学校でさらに2階建て。体育館も屋上はないし、2階以上の高さで避難できる場所はなかった。2キロ先のホテルに逃げ込んだ方もいたらしいが、避難場所ではないと門前払いされたという。行政が市民の安全も考えずに拡張した港のせいで地形が変わり、その港の部分から大量の海水がなだれ込む形で起きた。神栖市、鹿嶋市の津波のように人災で起きた物なので、私たちにはなすすべもなかった。(茨城県神栖市 40代女性)
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