- 東日本大震災津波体験談
ご自身の体験談3
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津波に遭われた当時の状況を教えていただきました。ほぼ原文のまま掲載しています。
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私は、老人ホームで働いていて地震直後大津波警報が発令してから、利用者さんを避難場所へ移動するため誘導してました。第一陣の車椅子の方を乗せた車が先に移動したとき 3時10分過ぎていました。その後から外の異変に気づき、海の方から黒い津波が押し寄せてきた。余りにも早すぎて寝たっきりの利用者さんは避難場所に間に合わなかった。職員と利用者さんは、津波に飲み込まれました。(宮城県東松島市 20代男性)
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テレビは停電のため、携帯は基地局が壊れ使えず。また、ラジオは持っていなかったため津波の情報が入ってこなかった。加えて、消防や警察からの避難指示も無かったので今居る場所は安全なんだと思った。水や食料、水を入れるタンクなどの買い出しに行った。また、携帯は基地局が壊れ数日間使えなかったので安否確認は全くできなかった。(仙台市宮城野区 30代女性)
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津波が2mから3mという情報をラジオで聞いたので、いつものことだと思い、ちょうど小学生の下校時だったので道に小学生がいないか確認しようと弟と二人海側へ歩きました。実家がほんのすこし上にあったため、津波に囲まれ孤立しましたが難を逃れました。もう少し潮位が高ければ祖父母弟共に死んでいました。弟は近所の方々と情報交換をしていたため、津波に追われ足を取られながらも長身と柔道部のため力があり、家のフェンスにしがみついて助かりました。(岩手県下閉伊郡山田町 未成年女性)
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・停電と携帯充電切れていて情報が一切なく、また近所の様子をうかがっても誰ひとり避難について知らないのでとりあえず消防などが巡回してくるのか待った。学校に子供を迎えに行ったのが1時間弱、後に避難所になる学校なのに、津波の情報避難の指示なく帰された。帰り道のコンビニで食料確保に1時間待ち。そこまでで2時間たっていた。コンビニに若い女性が駆け込み、「えー!名取とかに大きい津波くるのになにやってるのー?」と少し大きめな声で言っていたのが聞こえた。ただ、危機感がみんなには弱かった。海から7、8キロ位離れていたし、名取や閖上(ゆりあげ)は近いけど近所じゃないといった感覚があった。今思うと、ワンセグでテレビ見ていた人もいると思うのに、誰もその話はしていない。助かったのは、高速道路と決壊しなかった川の堤防のお陰です。隣の小学校付近1キロ半ほど海よりまでは津波がきています。この建造物なければここもだめでした。実母の入所していたホームのスタッフさんが亡くなりました。ピストン避難輸送の最後の輸送のために危険な場所に戻った。一人二人の入所者の方が避難に同意するのに時間かかったみたいです。
(宮城県仙台市若林区上飯田 40代女性/亡くなった方:宮城県仙台若林区荒浜40代女性)