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焼き餅の食べ方、東は「いそべ」、西は「砂糖醤油」が多い理由

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2024/01/05 05:03 ウェザーニュース

正月三が日の「食」の定番といえば、おせち料理と並んでお雑煮が挙げられますが、食べきれなかった餅を比較的手軽な焼き餅にして味わうという家庭も少なくないのではないでしょうか。

餅を焼いただけでそのまま食べるということはまずなく、醤油を付けてのりを巻いたり、砂糖醤油を付けたり、きなこをまぶしたりなどという人がほとんどだと思います。

ウェザーニュースは「好きな焼き餅の食べ方」について、スマホのアプリ利用者を対象にアンケート調査を行いました。調査の結果、東日本では「いそべ」、西日本では「砂糖醤油」が多数派を占め、東西で大きな差がみられました。

「いそべ」が一番人気の44%、砂糖醤油が続いて28%

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餅に付けるのは「しょうゆのみ」以外で、好きな焼き餅の食べ方を伺ったところ、最も割合が多かったのは「いそべ(醤油+のり)」で44%。「醤油+砂糖」が28%、「きなこ」17%、「そのほか」11%と続きました。

「そのほか」の内訳は、あんこ・納豆・大根おろし・ずんだ・チーズ・バター醤油・七味唐辛子など、さまざまでした。

焼き餅の食べ方について、最も回答が多かった項目を都道府県ごとに見てみると、東西でその差がはっきりと現れています。

「いそべ(醤油+のり)」の割合が一番多かったのは栃木・埼玉で64%、茨城61%、東京57%など、関東地方では60%前後。また、東北や東海でも50%以上の県が多いなど、東日本では「いそべ」が多数派でした。
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一方、「醤油+砂糖(砂糖醤油)」の割合が一番多かったのは鹿児島で61%。高知58%、長崎・沖縄が54%など、西日本の多くの県では「醤油+砂糖」が多数派となりました。

なぜ東ではいそべ、西では砂糖醤油の焼き餅が好まれるのでしょうか。その理由や焼き餅の歴史などについて、歳時記×食文化研究所代表の北野智子さんに伺いました。

江戸中期までは塩餡入りが主流

そもそも、焼き餅をいそべや砂糖醤油で食べるという習慣は、いつ頃始まったのでしょうか。

「鏡餅や雑煮、丸餅と角餅などに関する文献・史料は、さまざま存在しているのですが、『焼き餅(という食べ方)』については、歴史や各地の食べ方の違いなどに関するものは、確認できませんでした。

今でいう焼き餅は、おそらく日本各地で自然発生的に始まったものではないでしょうか。昔の日本は囲炉裏のある家が多く、保存食でもあった餅を、囲炉裏の火であぶって食べ始めたのだろうと思われます。

1958(昭和33)年出版の『飲食事典』(本山荻舟/平凡社)には【焼餅】について、『今は火に焙(あぶ)った餅の総称。しかし昔焼餅として売ったのは、餡入餅(あんいりもち)である』と定義されています。

『飲食事典』は完成までに12年かかったといわれていますので、昭和の初め頃には現在と同じような焼き餅のスタイルが定着していたと思われます」(北野さん)

昔の「焼餅/餡入餅」とはどのような食べ物だったのでしょうか。

「江戸時代中期の1695(元禄8)年に著された『本朝食鑑(ほんちょうしょっかん)』に、『焼餅なるものあり、煮小豆泥を以て餡となし、平団して(平たく丸くして)これを裹(つつ)み、釜上にこれを焼き、花紋様を印す、上饌にあらず』とあります。上等な食べ物とはみなされていなかったようです。

当時は焼き餅といえば塩餡入りの餅で、丸い形から『鶉餅(うずらもち)』『腹太餅(はらふともち)』とも呼ばれていました。これらを小さくして、餡に砂糖を加えて改良したものが『大福餅』と呼ばれました。

江戸後期、1830(文政13)年の『嬉遊笑覧(きゆうしょうらん)』には、『はらぶと餅は近頃までもありしが今は絶えたり』とありますので、その頃には塩餡入りの焼餅はなくなっていたのでしょう」(北野さん)

「いそべ」が多い背景には江戸っ子が好んだ「浅草海苔」?

東日本で醤油を付けてのりを巻く焼き餅が主流で、それを「いそべ」と呼ぶのはなぜなのでしょうか。

「江戸湾(東京湾)で浅草海苔(のり)が採れたことに加え、江戸っ子の浅草海苔への思い入れの強さや海苔好きだったこと、江戸前の海で各種の海苔が生れたことに由来するのではないかと推測されます。

『飲食事典』では【磯辺(いそべ)】について、『餅の食法。もちを炙(あぶ)って砂糖しょうゆをつけ、焼海苔に包む。東京人が好んで用いる』とありますが、なぜ好んで用いるようになったのかは記されていません。

また、『たべもの語源事典』では、『磯辺煮』という料理名として、『磯辺(磯のほとり)の【いそべ】である。磯でとれたものを使った料理に【いそべ】という名がつき、海苔を使った料理によく用いられる』とあります」(北野さん)

のりは昔から食べられていたのでしょうか。

「のりは日本人が創作した代表的な食品の一つで、古代から大切な食料となっていました。『紫菜(のり)、神仙菜(あまのり)、甘海苔(あまのり)と称されて珍重され、平安時代の927(延長5)年の『延喜式(えんぎしき)』や934(承平4)年頃の『倭名抄(わみょうしょう)』でも『紫菜(のり)』と記されています。

室町時代になると、のりは江戸浅草(東京都台東区)・葛飾(江戸川区・千葉県南西部)・出雲(島根県東部)など、採取地を冠して呼ばれるようになったそうです。江戸時代の1754(宝暦4)年の『日本山海名物図会』には「江戸浅草紫菜」とありますが、おなじみの『海苔』と呼ばれるようになったのは、江戸中期からとされています。

浅草海苔は地名から発したのりの総称で、遠浅の葛西浦(江戸川区)付近で採れたのりが浅草で売られたことが発祥です。初めは収穫量が少なく、消費できるのは諸大名や寺社に限られていたようです。江戸中期になって生産量が増えてくると、庶民の食膳にも欠かせないものになったといいます。

のりはあぶってから食べるのが江戸っ子流。焼いて色が鮮やかになり、うま味も香りも増したのりに醤油をちょんと付けて温かいご飯の上にのせ、箸でくるんで食べるのが江戸の町人の朝ご飯風景だったそうです。

元禄年間(1688~1704年)には、品川や大森(大田区)で養殖が始まっていました。やがて代表的な江戸みやげとなり、全国的に有名になったようです。

江戸中期になるとのり巻が登場して握り飯に替わり、“弁当革命”を起こしたようです。そのうちに、焼いた餅にも醤油をつけてのりを巻く、いそべという食べ方が広まっていったのでしょう」(北野さん)

「みたらしだんご」が砂糖醤油焼き餅の由来の一つか

西日本で砂糖醤油が主流となった理由はなんでしょうか?

「砂糖醤油を餅に付ける食べ方が、西日本一帯という広範囲で主流となった明確な理由はわかりません。

ただし関西に限っていうと、京都発祥で、後に庶民の味となり、関西人の身近なおやつである『みたらしだんご』の味わいに似ているからという可能性が推測されます。

みたらしだんごは、京都・下鴨(賀茂御祖=かもみおや)神社の夏越の祓(なごえのはらえ=6月30日の神事)に供えた神饌菓子『御手洗団子』が発祥とされています。

この時に境内の糺(ただす)の森あたりで、串に刺した団子を売っていたのが御手洗団子の起こりで、安土桃山時代の1587(天正15)年には、豊臣秀吉が開催した『北野の大茶湯(おおちゃのゆ)』で、御手洗団子が供されたとも伝わっています。

もう一つ推測しますと、昔は餅を食べることは正月の楽しみでしたので、日本人が最も身近で親しんでいる調味料である醤油に加えて、高価で希少だった砂糖を付けて食べることが、格別なおいしい食べ方とされたからではないでしょうか。

それが時代が流れても伝承され、現在に至っているのかもしれません」(北野さん)


焼き餅をいそべにするか砂糖醤油に付けるかは地域に限らず、それぞれの家庭や好みによってさまざまです。

関西出身の北野さんも焼き餅は“いそべ一辺倒”で、餅の白色が見えなくなるほどのりを巻いて食べるのが大好きで、一度も砂糖醤油を付けて食べたことがないそうです。

このお正月は、焼き餅の歴史や背景を思いながら味わってみてはいかがでしょうか。
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調査概要
調査日:2023年1月3日〜4日/質問:「しょうゆのみ」以外で、1番好きな「焼き餅」の食べ方は?/回答者数:11,322人/回答項目:いそべ(醤油+のり)/醤油+砂糖/きなこ/そのほか から1つ選択

参考資料
『飲食事典』(本山荻舟/平凡社)、『たべもの起源事典』(岡田哲編/東京堂出版)、『たべもの語源辞典』(清水桂一編/東京堂出版)、『絵でみる 江戸の食ごよみ』(永山久夫著/廣済堂出版)