気象アーカイブス(30)

63年前の洞爺丸事故に隠された“気象のミステリー”

手前に沈没した洞爺丸の船底
手前に沈没した洞爺丸の船底
1954(昭和29)年9月26日、青函連絡船の洞爺丸(とうやまる)が台風の直撃を受けて沈没した。死者・行方不明者は合わせて1155人に及び、日本海難史上最大の事故となった。なぜ大惨事が引き起こされたのか、その謎に迫る。

出航4時間後に沈没した洞爺丸

青函連絡船の洞爺丸が沈没する経過を簡単にたどってみよう。
航行中の洞爺丸
航行中の洞爺丸
【1954年9月26日11時05分】青森からの下り3便として運航していた洞爺丸(3898t)が函館の鉄道桟橋(さんばし)に到着した。折り返し14時40分出航の上り4便になる予定だった。
当時、北海道と本州を行き来する鉄道客は、函館−青森間を客車・貨車とともに青函連絡船で渡っていた。洞爺丸が14時40分に函館を出航すると、4時間40分の航海で19時20分に青森に到着。列車は青森駅を20時00分に発車し、上野駅(東京)に翌日10時15分に到着する予定だった。
【14時40分】洞爺丸は予定時刻を過ぎても出航しなかった。北海道に接近する台風の影響で函館に引き返してきた進駐軍専用の青函連絡船、第十一青函丸に乗っていた米軍軍人と米軍専用車を洞爺丸に移し替えることになり、それに時間がかかったからだ。その間に台風の前触れともいうべき風雨が強くなったため、洞爺丸も15時10分の時点で運航を見合わせた。
【17時40分頃】土砂降りだった函館は、この頃には風が弱まり晴れ間ものぞいたため、洞爺丸の近藤平市船長が出航を決断。出航時刻は18時30分と発表された。
【18時39分】洞爺丸は青森に向けて出航した。乗員乗客は合わせて1337人。だが、出航して間もなく風雨が強くなった。
洞爺丸が出航した函館の鉄道桟橋 国土画像情報(カラー写真)国土交通省
洞爺丸が出航した函館の鉄道桟橋
国土画像情報(カラー写真)国土交通省
【19時01分】なおも風雨が強まったため、洞爺丸は天候の荒れが収まるのを待とうと函館港防波堤灯台付近で投錨(とうびょう)した。しかし、平均40m/s、瞬間的には50m/sを超える暴風のために錨(いかり)がきかず、船体が流された。
【20時30分頃】車両甲板へ流れ込む海水と船体の揺れにより、作業員は甲板から引き揚げた。船内への浸水のため発電機が停止し、22時頃にはエンジンも止まった。船長は沈没を避けるため、遠浅の砂浜である七重浜(ななえはま)に座礁することを決断した。
【22時26分】洞爺丸は七重浜に座礁し、船体は右舷側に45度傾いた。これで転覆の危険は去ったと思われた。
【22時43分】船体を支えていた左舷の錨鎖(びょうさ=錨につながる鎖)が切断。大波を受けた船体は横倒しとなり、満載した客車が倒れる轟音(ごうおん)とともに横転した。
【22時45分】七重浜で洞爺丸は右舷側に135度傾斜して沈没。最終的に船体はほぼ裏返しとなった。乗員乗客合わせて1155人が死亡または行方不明となった。出航してから4時間余りのことだった。