気象アーカイブス(24)

「春一番」の意外なルーツとは!?

「春一番」で遭難した壱岐の漁師たち(壱岐高校美術部制作)
「春一番」で遭難した壱岐の漁師たち
(壱岐高校美術部制作)
今年は2月に吹いた「春一番」。長く厳しい冬が終わり、春がやってきたことを知らせる風だ。しかし、「春一番」という言葉が広まる裏にはある海での遭難事故があった。

壱岐の漁師53人が「春一番」で遭難

「五十三淂脱之塔」とは何か?

玄界灘に浮かぶ壱岐(いき)は長崎県に属するが、島外との交通機関は博多ふ頭(福岡県)との間を往復するフェリーとジェットフォイル(高速旅客船)がメインだ。
福岡〜壱岐を運航するフェリー「きずな」
福岡〜壱岐を運航するフェリー「きずな」
郷ノ浦港に入港する
郷ノ浦港に入港する
フェリーで2時間あまり、ジェットフォイルなら1時間ほどで壱岐の表玄関といえる郷ノ浦(ごうのうら)港のターミナルに着く。
郷ノ浦港フェリーターミナル
郷ノ浦港フェリーターミナル
そのターミナルの近くの突堤に墓石のような慰霊碑がひっそり建っている。塔には「五十三淂脱(とくだつ)之塔」「安政六未年二月十三日」と刻まれている。「淂脱」とは本来「得脱」と書き、生死の迷いを脱して悟りを得るという意味だが、海難事故のため「得」を「淂」とニンベンをサンズイに変えたとされる。安政6年2月13日は、新暦でいうと1859年3月17日だ。
五十三淂脱之塔
五十三淂脱之塔

「春一番の海難記」に書かれていること

壱岐市は2004年に4つの町が合併してできた。旧町の一つ、郷ノ浦町が出版した『郷ノ浦町の文化財』は、突堤の塔を「春一番の供養塔」と紹介している。それはどういうことなのか。
塔の近くの階段を上っていくと玄界灘を見渡す丘に出た。元居(もとい)公園だ。その一角に「春一番の塔」が建っていて、その脇に「春一番の海難記」と題した銘板がある。この「海難記」が疑問を解き明かしてくれる。
春一番の塔(元居公園)
春一番の塔(元居公園)

南の水平線に黒雲、「春一だ!」

「海難記」の要旨はこうだ。地元の漁師たちは早春に吹く「春一番」「春一」と呼ばれる南の暴風をおそれていたが、その日は快晴で出漁日和だった。
4、5人乗りの小型の漁船群が出漁し、「喜三郎曽根(きさぶろうそね)」と呼ばれる鯛の好漁場で、延縄漁(はえなわりょう)を始めた。延縄漁とは、1本の幹縄(みきなわ)に多数の枝縄(えだなわ)を付け、枝縄の先端に針を付けて魚を釣り上げる漁法だ。
春一番の海難記
春一番の海難記
しかし、南の水平線に黒雲が湧き上がるのを発見した漁師が「春一だ!」と叫ぶと、船がことごとく仕掛けたばかりの延縄を切り捨てて壱岐に戻ろうとした。だが、強烈な南風は海上を吹き荒れ、小山のような怒涛(どとう)が漁船をもてあそび、漁師たちはなすすべもなく、船もろとも海中に消え去っていった……。
下は「春一番の供養塔」に設置されている音声ガイド。壱岐での「春一番」の由来を説明している。突堤にあるため波音も交じるが、ぜひ聞いてもらいたい。

宮本常一が書きとめた「春一番」という言葉

今やすっかり定着した「春一番」という言葉は、この壱岐がルーツとされる。1959年に出版された『俳句歳時記』(平凡社)に編者として関わっていた民俗学の大家、宮本常一(つねいち、1907〜81年)が全国をくまなく歩いて採取した言葉の一つが「春一番」だった。本にはこう書かれている。
民俗学の大家、宮本常一
民俗学の大家、宮本常一
「春一番(仲春)【解説】壱岐で春に入り最初に吹く南風をいう。この風の吹き通らぬ間は、漁夫たちは海上を恐れる。(宮本常一)」

気象庁も「春一番」を定義

1960年代に報道機関が「春一番」という言葉を使い始めたが、はっきりした定義がないと今日の風が「春一番」なのか否か判断に迷う。報道各社がバラバラに報道したのでは混乱する。そこで気象庁は「春一番」を定義した。
地域によって定義は少しずつ違うが、関東地方では、1:立春から春分の間、2:日本海に低気圧がある、3:東京で最大風速8m/s以上、4:西南西〜東南東の風、5:前日より気温が高い。この5つがそろった風とされている。
こうして「春一番」が定義されると、それが春の幕開けのように報じられることになった。