気象アーカイブス(17)

終戦の日の空は本当に晴れていたのか?

終戦を告げる玉音放送を聴く人々(写真:朝日新聞社・時事通信フォト)
終戦を告げる玉音放送を聴く人々
(写真:朝日新聞社・時事通信フォト)
今から71年前の1945(昭和20)年8月15日、日本は終戦を迎えた。「とても暑い日だった」「あの日は抜けるような青い空だった」と回想する人が多いが、本当はどんな天気だったのか。

関東以西は晴れ、東北・北海道は?

「世間は全くの不意打」

終戦の日はどんな天気だったのか。『鞍馬天狗』シリーズや『パリ燃ゆ』などを書いた人気作家の大佛次郎(おさらぎじろう・1897〜1973年)は当時、鎌倉(神奈川県)に住んでいたが、日記に天気とその日の出来事を書いている。
大佛次郎
大佛次郎
「8月15日/晴。朝、陛下自ら放送されると予告。(中略)予告せられたる12時のニュウス、君ヶ代の吹奏あり主上観(みずか)らの大詔放送、次いでポツダム会議の提議、カイロ会談の諸条件を公表す。(中略)世間は全くの不意打のことなりしが如し。人に依(よ)りては全く反対のよき放送を期待しありしと夕方豆腐屋篠崎来たりて語る……」(『終戦日記』)
大佛は「終戦の詔(みことのり)」を庶民はどう受け取ったかを書いていて興味深い。

夏の太陽がカッカと燃えている

『故旧忘れ得べき』や『如何なる星の下に』などを書いた作家の高見順(たかみじゅん・1907〜65年)も鎌倉に暮らしていたが、その日の気象を描写している。
高見順
高見順
「8月15日/−−ついに負けたのだ。戦いに敗れたのだ。夏の太陽がカッカと燃えている。目に痛い光線。烈日の下に敗戦を知らされた。蝉がしきりと鳴いている。音はそれだけだ。静かだ」(『敗戦日記』)
「蝉がしきりと鳴いている」
「蝉がしきりと鳴いている」
太陽の灼熱(しゃくねつ)と蝉の音は、日本の敗戦を知った高見の心象風景でもあったのだろう。

「中央気象台月報」

終戦の日、鎌倉は晴れていたようだが、ほかの地域はどうだったのか。それを調べるのは難しくない。「中央気象台月報」(昭和20年)があるからだ。南は屋久島(鹿児島県)から北は根室(北海道)まで全国80の観測地点の毎日の気圧、気温、湿度、降水量、雲量、日照時間などが記録されている。
1945年8月15日6時の実況天気図
1945年8月15日6時の実況天気図
それによると、関東・信越以西は広い範囲にわたって晴れていた。たとえば、鎌倉に近い横浜(神奈川県)は日照が8.2時間、雲量が平均4.3(10分の4.3という意味)だから、雲ひとつない快晴ではないけれど、1日を通して晴れていたとみられる。
ただし、ところにより夕立はあったようだ。北関東の熊谷(埼玉県)は、日照が5.8時間、雲量が平均5.7、降水量1.6mmとある。この日の最高気温が31.2℃に達したことから、午後に夕立があったことが推測される。

東北・北海道は曇天

しかし、東北の太平洋側は晴れていない。仙台(宮城県)は日照が1時間、雲量が平均10だからほぼ曇天だった。盛岡(岩手県)は日照が4.2時間、雲量が平均9.7で、降水量が0.2mmと少し雨が降っている。
北海道の大半は雲量が平均10と1日を通して曇天で、帯広(降水量0.3mm)、釧路(同0.2mm)、稚内(同1.6mm)では小雨が降ったことがわかる。