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地図で有名な伊能忠敬は「空」の研究者だった!

2018/04/18 14:18 ウェザーニュース

江戸時代の測量家・伊能忠敬(いのう・ただたか)は、本格的な日本地図を作成した人物としてよく知られています。4月19日は「地図の日」といわれていますが、これは忠敬が初めて測量の旅に出発した日に由来しています。

このように日本全国を歩き回った「陸」のイメージが強い忠敬ですが、もともとは「空」の研究者だったことをご存知でしたか?

最初の旅の目的は「星の観測」

伊能忠敬は商人として成功を収めたあと、50歳を目前にして息子に商売をゆずりました。趣味の暦学(星の動きや暦を研究する学問)をもっと勉強するためです。

江戸に出た忠敬は、天文方(暦や天文などを担当した江戸幕府の職名)の高橋至時(よしとき)の弟子となり、この19歳年下の師匠から様々なことを学びました。また、江戸の住居に様々な天文観測装置を備え、日夜観測にも励んだといいます。やがて忠敬は至時が驚くほどの天文知識を身につけ、至時と議論を深めるまでになりました。

天体観測器具の象限儀。測量地の緯度を求めるために、北極星などの高度を観測した(千葉県香取市 伊能忠敬記念館所蔵)
至時「地球の大きさがわかれば、正確な暦をつくれるんだけどなあ」
忠敬「星の動きを測定しながら長い距離を歩けば、地球の大きさもわかるはずです」
至時「でも江戸から蝦夷地くらいの長い距離じゃないと、意味はないですよ」
忠敬「そんな自由な旅、江戸幕府がゆるしてくれないですよねえ……」

ふたりの間では、このような会話がなされていたそうです。ところが幕府にお願いしてみると、意外にも「蝦夷地まで行ってきてもいいよ」との回答が得られました。

ただし、「調査費用は自費」、そして「蝦夷地の地図を作成すること」との条件付きです。当時、蝦夷地周辺に外国船が頻繁にあらわれており、防衛のため、幕府は蝦夷地の地図を必要としていたのです。

こうして寛政12年(1800年)閏4月19日、忠敬は蝦夷地へ向けて旅立ちました。

地図の完成は忠敬の死後

数ヵ月後、江戸に戻ってきた忠敬の地図を見て、至時や幕府の要人たちは驚愕しました。その地図が、あまりに精密だったためです。

地図作成の能力を認められた忠敬は、その後、幕府の援助を受けながら、全国各地へ測量の旅に出ることになりました。そしてついに、幕臣(幕府所属の役人)に取り立てられるまでになったのです。
伊能忠敬旧宅にある測量の日碑(千葉県香取市)
文政元年(1818年)、日本地図の完成を目前にして、忠敬は病没しました。74歳でした。その後も日本地図の作成は、忠敬の死を隠したまま弟子たちによってすすめられ、忠敬の死から3年後、ついに『大日本沿海輿地全図』が完成。弟子たちが完成まで忠敬の死を隠したのは、地図作成の名誉を、忠敬が得るべきと考えていたからだともいわれています。

「空のスペシャリスト」を目指した忠敬は、こうして「陸のスペシャリスト」として歴史に名を残しました。

忠敬の墓は本人の強い希望により、至時(1804年死去、享年41)の墓のそばに建てられています。きっと今も仲良く、空を見上げながら語り合っていることでしょう。

今年(2018年)は忠敬の没後200年にあたります。

参考資料など

『まんが日本の歴史人物事典』(西東社、監修:矢部健太郎)
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