貴族の「饗宴」と 農民の「春山行き」が 江戸時代に出会った
お花見のルーツはどこにあるのだろうか。著書『花見と桜〈日本的なるもの〉再考』で日本独特の花見について考察した国際日本文化研究センターの白幡洋三郎名誉教授によると、平安貴族の「饗宴」と農民が古来から山に入って飲食する「春山行き」の風習が江戸時代に融合して今につながる花見が生まれたという。
「8代将軍吉宗が江戸の各所に桜を植樹して、庶民に花見を奨励したのです。花見は春の日帰りレジャーとしてたちまち広がりました」
「8代将軍吉宗が江戸の各所に桜を植樹して、庶民に花見を奨励したのです。花見は春の日帰りレジャーとしてたちまち広がりました」
桜が植樹されたのは、江戸の郊外の飛鳥山、隅田川堤、御殿山の3ヵ所。3つは江戸の中心から約10kmのエリアの中にあり、町の人たちが少し足を伸ばせば遠足気分で行ける距離だった。いずれも吉宗が好んだ鷹狩りの狩り場に近い。
「狩り場には厳しい法度が定められ、付近の住民は勢子として動員されることもありました。吉宗がそうした土地に桜を植えたのは、鷹狩りで世話をかけている庶民への賜物とみることもできます」と白幡名誉教授。
「狩り場には厳しい法度が定められ、付近の住民は勢子として動員されることもありました。吉宗がそうした土地に桜を植えたのは、鷹狩りで世話をかけている庶民への賜物とみることもできます」と白幡名誉教授。
江戸の文化に詳しい北区飛鳥山博物館学芸員で國學院大学講師を兼ねる石倉孝祐さんが付け加える。
「江戸では、上野が花見の随一の名所でしたが、徳川家の菩提寺として建立された寛永寺があったため、飲食や歌舞音曲が禁じられていたのです。しかし、吉宗は自ら飛鳥山の花見に来たことがあるように、誰もが身分を超えて花見を楽しめるように、家来と一緒に羽目を外して楽しんでみせたと伝えられています」
「江戸では、上野が花見の随一の名所でしたが、徳川家の菩提寺として建立された寛永寺があったため、飲食や歌舞音曲が禁じられていたのです。しかし、吉宗は自ら飛鳥山の花見に来たことがあるように、誰もが身分を超えて花見を楽しめるように、家来と一緒に羽目を外して楽しんでみせたと伝えられています」
それを知って庶民も花見の新名所では、飲み食いしながら、歌や踊り、仮装などを楽しんだのだという。花見なら昼間から酒を飲んで騒いでもとがめられることはなかった。
現代の花見スタイルのルーツをたどっていくと、「無礼講」「飲食」というキーワードが浮かび上がってくる。なかでも「無礼講」は働き者の日本人がひとときの享楽を手に入れる手段だったのだろう。
参考資料など
季刊そら2012年春号 特集:桜をめぐる3つの謎