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お天気が歴史を変えた!?
『西郷どん』と田原坂の雨

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2018/01/07 11:20 ウェザーニュース

1月7日(日)にスタートする大河ドラマ『西郷どん(せごどん)』は、明治維新の立役者・西郷隆盛の生涯を描いています。歴史に“if”はありえないのですが、西南戦争最大の激戦地、田原坂の戦いで雨が降っていなかったら…。西郷隆盛が自刃することはなかった!?

お天気が勝敗の行方を決めた例は織田信長の「桶狭間の戦い」、豊臣秀吉の「備中高松城攻め」など過去にも数多くありますが、漫画家・コメンテーターとして知られ、日本の歴史に独自の視点を持つ黒鉄ヒロシさんに「田原坂(たばるざか)と雨」について聞きました。
〔リンク〕ウェザーニュース記事一覧

西南戦争の真実とは?

「西南戦争についての記述は教科書においてもなぜか淡白で、さらに局地戦である田原坂の戦いに至っては無視するかのような扱いです。しかも、西郷隆盛を首領に担いだ不平士族による叛乱と、雑駁(ざっぱく)にまとめてしまっています。後世に伝えるべき西南戦争の真実と田原坂に降りかかった雨が、その後の日本の進路を変えてしまったといっても過言ではありません」

「明治10(1877)年に勃発した西南戦争。最後の『城山戦』を待つまでもなく、実際は6ヵ月前の『田原坂の戦い』で西郷軍は終わっていたといえます。当初、西郷軍は戦争といえるほどの準備もなく、その性格は政府に対する強訴に過ぎなかったのです」

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西南戦争の戦場となった田原坂
「西南戦争の発端となった2月15日の雪の朝。2日遅れで出発する西郷隆盛を鹿児島に残して私学校党(政府に対する不平不満を鎮静させる目的で作られた私学校)は熊本を目指します。熊本には新政府の鎮台(ちんだい=軍隊の編成単位)がありました。まさかこの鎮台が武力阻止に出るとは思わず、本土へと渡る途中の地としての認識しか持っていませんでした。そこで熊本鎮台が立て籠もる熊本城を包囲して開城を迫りましたが、拒否されてやむなく武力攻撃に転ずることになるのです」

田原坂に7日間降り続いた雨

「加藤清正が築城した堅固な城に跳ね返されて、戦場は熊本北郊の田原坂へと移ります。熊本に入った時点で総勢2万人、小銃1万1000挺、大砲60門を備えた堂々たる大軍でした。しかも主力は戊辰戦争を戦った、日本最強を誇る薩摩軍です」

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弾痕が残っている田原坂の「弾痕の家」
田原坂では官軍、西郷軍双方で17昼夜に及ぶ一進一退の大攻防戦が繰り広げられました。この間の7日間は、霙(みぞれ)や雨が降り続いたと伝えられています。

「『♪雨は降る降る人馬は濡れる 越すに越されぬ田原坂』というのは熊本民謡『田原坂』の歌い出しですが、降り続く冷たい雨は、西郷軍の持つ先込めエンフィールド銃の火薬を湿らせた上に、坂道の赤土を溶かして足場を奪い劣勢へと追い詰めたのです。一方官軍は、新鋭型の元込めスナイドル銃を揃えていました」

旧式のエンフィールド銃でなかったら

「銃こそ旧式の先込めエンフィールド銃でしたが、士気と質と道理に勝る西郷軍はよく戦いました。雨に濡れた銃を捨て、太刀をかざして西郷軍は突撃するしかありません」

「新政府軍の参謀長として参戦していた山縣有朋が戦況報告として『百人余の薩摩軍抜刀隊が長剣を振りかざして切り込んでくるので、わが軍の新兵は驚愕し敗走するもの多し』と記しています。歴史にifはありませんが、もし田原坂の雨がなかったら……、明治5年の時点で西郷が民撰議院設立を理解していたことを考え合わせれば、より民主的な政府が誕生していたかもしれないのです」

明治10(1877)年の西南戦争の戦死者は薩軍7186名、官軍6923名、殉難者29名と史跡田原坂の碑に記され、激戦の跡がしのばれます。こうした歴史の“if”に思いを馳せながら1年間の大河ドラマを楽しんでみてはいかがでしょうか。

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