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76年前の「天気予報が消えた日」生証言

2017/12/08 05:50 ウェザーニュース

毎日接している天気予報が突然なくなったらどうなるのでしょうか。実際、太平洋戦争中の3年8ヵ月にわたり、天気予報がいっさい報じられない時代がありました。

暗号化された気象情報

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ラジオからも天気予報の放送がなくなった
太平洋戦争が始まった1941(昭和16)年12月8日の朝、気象報道管制が実施され、新聞やラジオから天気予報が一切消えました。

「天気予報が消えた」当時、宮津測候所(京都府)に勤務していた増田善信さん(94歳)は開戦当日のことを振り返ります。「私は4月に採用されたばかりで18歳でした。その日は当直で、18時に中央気象台から流れてくる気象無線を受信して天気図に描き入れるのですが、突然、意味不明の文字列が流れてきたのです」

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太平洋戦争中の話を語る増田善信さん
「気象無線が暗号化されていたのです。すぐに所長に報告すると、『おお、そうか』と言って金庫から乱数表を取り出して解読していました。この日から気象情報は軍事機密になったのです」(増田さん)

口外できなかった天気予報

増田さんが続ける。「私が勤務していた宮津は漁港もあるので漁師さんが多かった。これから時化(しけ)ることがわかっていても、伝えられないことがもどかしかったです」

日本海側の近畿地方特有の現象に「欺瞞(ぎまん)天気」があります。低気圧が近づくと、かえって天気が良くなるのです。その低気圧が秋田あたりまで行くと海が荒れ、遭難する漁船もありました。そんなとき増田さんは「今日は天気が良いけど、明日はどうですかね」という言い方で伝えた。気象関係者が一般の人に天気予報を口外することも禁じられていたのです。

台風や地震の情報も消えた

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戦時中、海軍気象部が使用していた大倉精神文化研究所(横浜市)
天気予報が消えて農作業も打撃を受けました。晩春や春の霜害、田植え後の降雨の有無、夏の干ばつなど農作業に天気予報は欠かせませんが、いっさいの気象情報が消えたのです。

台風の接近や進路予報も伝えられませんでした。戦時中、東南海地震(1944年12月、M7.9、死者・行方不明者1223人)と三河地震(1945年1月、M6.8、死者・行方不明者3432人)が発生しましたが、新聞はほとんど報道しませんでした。報道管制がしかれたからです。

冗談のような話が残っています。東京・神宮球場で行われた東京六大学野球で、一塁フライが太陽の光と重なって一塁手が落球しました。実況中継していたアナウンサーが、「折からの」と言いかけましたが、「太陽の光」と続ければ、東京地方が晴れていることがわかってしまいます。そこで「折からの自然的悪条件のために」と言い換えて放送を続けたそうです。

戦地に駆り出された気象技術者

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当時、気象観測用気球に使用していた浮力測定器
天気予報は出せなくなりましたが、気象技術者は即席で養成されて戦地に駆り出されました。ビルマ(ミャンマー)やマレーシアに空港を建設するにあたって風向風速を観測したり、気象観測で作戦遂行に絶好のタイミングを探ったり、戦争には気象技術者が欠かせなかったのです。そのため戦地に散った気象技術者も少なくありませんでした。

3年8ヵ月ぶりに復活した天気予報

1945年8月15日、日本は敗戦を迎えました。天気予報が復活したのはその1週間後。NHKラジオは正午のニュースに続いて「東京地方、今日は天気が変わりやすく、午後から夜にかけて時々雨が降る見込み」と天気予報を流しました。

新聞の天気予報欄が復活したのはその翌日の23日でした。朝日新聞(東京本社)に載ったのは「(22日17時中央気象台発表)【関東地方】北東の風、曇りがちで山岳方面ではなお驟雨(しゅうう)がありましょう」というものでした。

3年8ヵ月にわたって天気予報が軍事機密として秘匿(ひとく)された時代があったのです。