気象アーカイブス(22)

世界が驚いた105年前の南極上陸 白瀬矗のレジェンド

南極大陸で日章旗を立てる白瀬隊長
南極大陸で日章旗を立てる白瀬隊長
今から105年前の1912(明治45)年1月16日、南極大陸に上陸した白瀬矗(しらせのぶ・1861〜1946年)。南極点到達は果たせなかったが、探検家魂は超一級だった。そのたぐいまれな足跡をたどる。

すべてを探検のために

白瀬の故郷の記念館

日本海に面する秋田県にかほ市に白瀬南極探検隊記念館がある。建築家の黒川紀章(くろかわきしょう)が設計した斬新なデザインの建物だ。南極探検隊を率いた白瀬矗の生誕地の金浦町(このうらまち・2005年に合併してにかほ市)に建設され、1990(平成2)年にオープンした。
白瀬南極探検隊記念館
白瀬南極探検隊記念館
記念館館長の佐藤豊弘さんが語る。「白瀬は郷土の英雄です。今も子どもから老人まで多くの人に慕われ、誇りに思われています」
記念館館長の佐藤豊弘さん
記念館館長の佐藤豊弘さん
白瀬はどんな人生を歩んだのか、その足跡をたどってみよう。

探検家を目指した11歳の誓い

旧金浦町の浄土真宗の寺、浄蓮寺(じょうれんじ)の長男として1861(文久元)年に生まれた白瀬知教(ちきょう・後の矗)は大変な腕白少年だった。その腕白少年が11歳のとき、寺子屋で教える医師・蘭学者の佐々木節斎(せっさい)から探検家のコロンブスやマゼラン、そして北極の話を聞き、自分は北極探検家になりたいと思った。
白瀬の生家、浄蓮寺
白瀬の生家、浄蓮寺
探検家になりたいという白瀬少年の思いを受けとめた佐々木は「5つの教えを守り初心を貫け」と誓いを立てさせた。
1.
酒を飲むべからず
2.
煙草を吸うべからず
3.
茶を飲むべからず
4.
湯を飲むべからず
5.
寒中でも火に当たるべからず
白瀬は生涯この教えを守り続けたという。

お寺の跡取りが軍人に

お寺の長男だった白瀬少年は18歳のときに東京の宗教学校に入学するが、早々に退学して陸軍教導団(下士官養成機関)に入団する。探検家になるには軍隊で鍛錬する必要があると思ったからだ。同時に、名前を「知教」から「矗」に改名する。「矗」は「高くそびえるさま」を表す漢字で、白瀬は気に入っていた。
軍服姿の白瀬矗
軍服姿の白瀬矗
29歳になった白瀬が特務曹長として仙台の第二師団にいたとき、児玉源太郎少将(1852〜1906年、後に内務大臣・文部大臣などを歴任)と知り合う。白瀬が北極探検への思いを語ると、児玉は「まず千島か樺太(からふと)に行って、厳寒に耐えられる体であることを見せてはどうか」と諭された。

千島で越冬生活

千島に行く機会は意外に早くやってきた。32歳のとき、郡司成忠海軍大尉の千島探検隊に加わったのだ。千島列島の開拓が主な目的だったが、計画はずさんだった。
記念館の前には鯨とほぼ原寸大の開南丸
記念館の前には鯨とほぼ原寸大の開南丸
5隻の船に分乗して東京を出港したが、青森県沖で暴風雨に遭遇して2隻が沈没し、19人が行方不明になった。それでも白瀬は千島列島最北端の占守島(しゅむしゅとう)で穴居生活を2年2ヵ月続けた。他の島で越冬する人も含めて21人のうち13人が亡くなった。その大半はビタミン不足による壊血病(かいけつびょう)が原因だった。白瀬の体は頑強に鍛え上げられていたようだ。

北極から南極に転換

白瀬はその後、陸軍に復帰して日露戦争に従軍し中尉に昇進。そのため「白瀬中尉」と呼ばれることもある。
浄蓮寺の境内には白瀬の石像とペンギン
浄蓮寺の境内には白瀬の石像とペンギン
北極探検の機会を探っていたが、48歳のときに米国の探検家ピアリーが北極点の踏破に成功したことを知って呆然自失。11歳のときから北極点一番乗りを目指していたのだから無理もない。が、気を取り直した白瀬は前人未到の南極点踏破を目指すことにした。